One-track


 道路を挟んだ向かい側。幼稚園から現在<いま>――高校まで同じ同級生が住んでいる。
 いつからだろうか、会っても言葉さえ交わさなくなった。
 たまに、幼馴染みの家から聞こえてくるピアノの音。俺は才能がないのだと、小学三年の頃、ソイツと一緒に通っていたピアノ教室を辞めた。
 その時に音楽からは足を洗ったはずなのに、俺の心を揺さぶる。
 ピアノだけが音楽じゃない。
 目覚めたきっかけは、彼女の奏でるピアノの音――。

 独学でギターを始めた俺には、大きな夢があった。





 大好きなバンドのライブで知り合った二人――川村翔太(かわむら しょうた)と仁科健吾(にしな けんご)とたまたま同じ百異館高校に通っているということで、意気投合した俺達は軽音部を作った。まぁ、軽音部とは表向きの名称であって、バンド活動を勝手に部活にしたものだ。
 文化祭で会場満員、拍手喝さい、ライブハウスでも大人気、街も歩けぬ有名人になる……という妄想に取り憑かれていた。
 しかし現実は、――川村がドラマー、仁科がベーシスト、そして俺がギタリスト。色々、当たってみたものの、結局、肝心なボーカル不在のまま活動を開始することになった。出だしから最悪。
 その上、音楽活動に専念しすぎて、俺はそうでもなかったが、川村と仁科は見事に成績を落としていった。
 所詮は地元で有名な中学生バンドのコピー。
 高校に入って初めての文化祭直前、自分たちは活動に不安を感じ始めた。ギター、ベース、ドラムだけではインストの演奏ぐらいしかできない。音を合わせても何かが足りない。
 演奏を終えても満足感が湧いてこない。それは、川村と仁科も同じようだった。
「せめて、シンセ弾けるヤツが居てくれたらなー。色々な音出せるから曲の感じがガラっと変わると思うんだよねー」
 溜め息交じりに提案する川村に、仁科も賛同する。
「それ、すっげーいいと思う。だけど、弾けるだけじゃなくてシンセ持ってるヤツ限定じゃねぇ?」
 この二人の頭の中には、コムロテツヤかアサクラダイスケが居るはずだ。シンセサイザーなんか持ってるヤツなんか居るのか? まず無理だろうね。せいぜいキーボードが限界だろう。弾けるヤツには心当たりがあるんだけど――一応、聞いてみるか。
 学校でもたまに会うんだけど、クラス違うし、しばらく会話らしい会話もしていないが、取り合ってくれるだろうか。

 どう声を掛けようか考えながら駅まで来た。運良く、ホームで電車を待っているのを発見。絶好のチャンス到来!
 ベンチに座って携帯をいじっている彼女の前に立つと、声を掛ける前に彼女は顔を上げてきた。
「……何?」
 久しぶりの会話は、不機嫌そうな一言かよ。こうなったら、こっちも率直に……。
「軽音部のキーボードになってくれ」
「……ボーカル不在の軽音部……って言うか、バンドもどきでしょ? 自称、『Vivid』のコピーバンド」
 思った事はあっても、自分でそう称したことは一度もないんだけど。
「文化祭直前で行き詰まって、マジで頼む!」
 両手を合わせ、頭を下げた。
「……いいわよ。その代わり、文化祭までね」
 彼女は軽く返事をすると、また携帯に視線を戻した。
 条件付きではあるが、今年は何とかなりそうだ。



 早速、次の日の放課後から文化祭に向けて、本格的に練習を開始。
「ってことで、期間限定キーボードの日下部紀子(くさかべ のりこ)。ピアノ弾かせたら天下一品!」
「とりあえず、聞かせてくれる?」
 ……自己紹介はどうでもいいのか。そこまで関わる気はないということですね。
「まさか、全部コピーだなんてオチはないわよね?」
 ズバリ発言に背筋が凍った。オリジナルが二曲しか出来上がっていないなんて、言えなくなってしまった。


「ちょっと待って。今の所、何か変」
 聞かせろと言われて演奏を始めたら、気に入らない部分があったらしく、途中で止められた。ピアノで耳が鍛えてあるだけに、文句を言う訳にはいかない。
「譜面、ないの?」
「ない。……俺はちょっとしか読めないし、川村と仁科に至っては全く」
 紀子は呆れた顔をして、ウチの押入れでしばらく眠っていたキーボードの鍵盤を一つ叩いた。
「これ、何の音?」
「ド」
「ソじゃない?」
「……ミ?」
 てんでばらばら。
「正解はド。あんたら本当に大丈夫?」
 正解したのは俺だ。
「慎二、この二人とカラオケ行ったことある?」
「まぁ……あるけど……」
「オンチだったりしないわよね?」
「いや、全然大丈夫。普通に聞ける」
「……何が何の音か、理解していないだけか……」
 急に紀子は鼻歌を歌いだす。
「今のに合った音、出せる?」
 それは俺たちを試してるんだろう。不機嫌な顔の二人に目で合図すると、それぞれ自分の音を奏でる。
 演奏を終えると、紀子は少し考え、感想を言った。
「悪くない。でも譜面は読めない。要するに、ベースとなる曲さえあれば、どうにでもなるということかしら?」
 ベースという言葉に、仁科が自分のことだと勘違いして、自分を指差していた。違うよ、基準になる曲だって。
「あんた達のオリジナル曲は、鼻歌でも私が譜面に起こしてあげるわ」
「譜面読めないって」
「アンタ、バカ? せっかく作った曲の一部でも忘れたらどんなにいい曲でもパーになっちゃうのよ。もったいないじゃない。だから今のうちに起こしてあげると言ってるのよ。次に新メンバーを入れる時は、譜面が読めるヤツにすることね」
 キツい一言に、俺たちはぐうの音も出なかった。既に幻の名曲が何作かあるんだよね。
 おもむろに紀子は首を傾げ、キーボードを隅から隅まで眺めた。
「……慎二、これ、何年前のキーボードよ」
「……十年以上前の」
 年季が入ってるだろ? 俺がピアノ教室に通ってた時に買ってもらったモノだ。まだ動くのが自分でも奇跡だと思った。まぁ六年は押入れに入ってたけど。
「見たことあると思ったら、アンタのか……」
 俺のだといけないのかよ。
「……二人って、どういう関係?」
 仁科と川村が何かに怯えるように聞いてきた。何か変な事考えてないか?
「家がお向かいってだけで、ただの幼馴染み」
「腐れ縁」
 ……腐れ縁だと? 顔をしかめて紀子の方を向くと、ぷいっとそっぽを向いた。イヤな女になったものだ。
 彼女が奏でるピアノの音は、繊細でキレイなのに……。





 日が経つにつれ、部室の机の上に奇怪な暗号がたくさん……。
 仁科は目を回して倒れ、川村は頭痛を訴えて保健室へ薬を貰いに行ってしまった。
 いや、それは楽譜なんですけどね。
「フテンシブオンプが追いかけてくる……」
 仁科はうなされていた。しかし、何で付点4分音符が追いかけてくるんだ。
「シブキュウフ……ツタッカート……あうう」
 ツタッカートじゃなくて、スタッカートだ、このバカ。
 こうなってしまった原因は一つ。紀子が起こしている譜面のせいだ。
 何も言わずに作業をしてくれればこんなことにはならなかったはずだ。
 何かと、ここはなんたら、そこはなんたらと、専門用語をフルに使って文句を言うものだから、免疫のないヤツらの頭がパンクしてしまったのだ。
「私、ギターのコードってのが分からないんだけど……」
「俺も知らないけど」
 紀子の手が止まり、バカでも見るような表情で振り返ってきた。
「どうやって弾いてるの?」
「……長年の勘……かな?」
 長年と言えるほどの長さではないが、どこが何の音なのか頭の中に入っているので、思ったように音を出すのは可能。だけど、譜面もコードもさっぱり。
「……」
「……なんだよ」
「バカなのか、天才なのか、よく分からないけど、バカね」
 結局バカなのかよ。

 紀子のスパルタ指導は、文化祭直前まで続いた。
「ちょっとストーップ!! ドラム、今のところジャ〜ンが早すぎ! それからベース、ベンベンボーンボーンとしか聞こえないけど、音外したら浮くのよ!」
 ははは、手を抜いたりしくじったりしたらすぐにコレだ。
「慎二、手を休めたのはバレてるわよ」
 バレてた。ちょっと顔が痒かっただけだ!



 ――いよいよ文化祭当日!
 部費獲得の為に有料チケット制にしたものの、売れ行きはイマイチ。
 本番……ステージに上がっても空いている席が目立った。
 やはり、あのバンドを基準に考えてたのがそもそも間違いだった。
 向こうは地元でも名の知れたインディーズバンド、俺たちはその影響で始めただけの譜面も読めないドシロート。でもそれなりに頑張ってきたつもりだ。
 そのバンドは今年の夏、突然解散してしまった。心のどこかで後を継ぐのは自分達だと思い込んでいただけかもしれない。
 結局、不満だらけのうちに終わってしまった。
 楽器を片付け、部室に置きに行く途中、紀子は不満そうな表情でこう言った。
「何考えてたの?」
 彼女だけは、俺の乱れを察知していたようだ。気付かれたのなら、下手に隠す必要もないだろう。
「……現実が甘くないってこと。自分なりに頑張ってきたけど、やっぱり無理かな……って思った」
 折角、紀子が参加してくれたのに、満足のいく演奏は出来なかった。
 ……でも今日で終わりだもんな、紀子は。
「そうやって簡単に諦めるの?」
 そりゃ、諦めたくはないけど、自分の器量にも限界があることがよく分かったし。
「その程度なの? あんた達って、お遊び程度にやってただけなの?」
「違う!」
 言われ放題言われて余計に悔しくなり、思わず怒鳴ってしまった。
「違うんだったら、どうして真剣にやらないの? 折角サポートで入ってやってるのに、振り回されたこっちの身にもなって欲しいわ」
 歩く速度を速め、紀子は先に行ってしまった。
 ――俺だって頑張ってるのに、結果が付いてこなくて悔しいんだよ!

 個人、グループのステージ時間、何組かバンド演奏があった。
 日は浅いけどこっちは部活としてやっているのに、活動していると普段は聞かないような人たちがステージに立っただけなのに、その差は歴然。
 特に、二年生の赤い髪やポニーテールの人が居たバンドなんかは、ステージに慣れている感じで、メンバー全員が楽しんでいるように見えた。
 どうしてそんなに差があるんだろう。ボーカルが居ないから? ステージに立った回数の違い? それとも、上手くて人気があるか、ないか?
 悔しくて歯を噛み鳴らし、ステージを睨むように見つめた。
 ――来年は、来年こそは絶対に、最高のステージにしてみせる。そう、心に誓った。





 それから、生徒会役員の選挙で書記に当選。
 軽音部の活動をしながら、生徒会の仕事もこなした。
 何人か女の子とも付き合ったけど、音楽を優先しすぎたせいでことごとく振られ続けた。
 紀子は……契約期間の過ぎた文化祭以降も軽音部に居ついていた。
 生徒会の仕事を終えて部室に向かうと、バカみたいに大笑いする声が聞こえた……。
 ドアを開けて真っ青になったのは俺。
「あー、来た来た。何コレ」
 机に広げられているファイル……それは俺の物だ。授業中、ふと思いついた詩を書きなぐったルーズリーフ。生徒会室に行く前に部室に置いていったカバンを見事に探られている。
 何で勝手に人のカバンを探るかね?
「一体何なの? このクサい詩は」
「クサくてプンプン匂いますな」
「振られた彼女宛の手紙? 寄り戻そうと奮闘中?」
 好き勝手に三人は言う。
「違う。いつか来るボーカルの為の歌詞考えてんの」
 冷静を装い、机の側に置いてある椅子にドカっと座った。
「……全部ラブソングにするつもり?」
 いや、そんなつもりはないんだけど、ナゼか浮かんでくるフレーズが全部そっち系なだけで……。
「そんなに言うならお前らも考えろよ!」
「激しい恋に身を焦がぁしぃ〜♪」
 と、勝手に歌い出す。
「やめれー!!!」
 俺が必死に考えた詩を、笑いの種にするな!
 次は……絶対に成功させたいんだから……。





 ――二年に進級し、転機は訪れた。
 顧問に小言を言われながらも生徒会の仕事を片付けて、それから部室に向かうのも慣れてしまった、春のある日。
 部室はやけに静かで、みんなサボって帰ったんじゃないかと思った。ドアを開けると、机に釘付けになっている、三人の姿があった。
「何してんの、お前ら……」
「いや、新入生の女子でも物色しようと思って、妹から名簿借りたんだけどさ……コレ見て……ココ」
 一年の特進クラスの名簿か。仁科が指差す場所にあった名前は、男の名前だった。まさか、お前……そっち系か? いや、そうじゃなくて、妹居たのか……。
「妹の話によると、間違いなく『Vivid』のアレらしい……」
 突然解散した、バンド――ツインボーカルの片割れ。確か、そんな名前だった。
「的場……洋平」
 考えるよりまず行動!
「スカウトキャラバン二〇〇五! ワタクシ、部長としてスカウトに行って参ります!」
 ビシッと敬礼すると、俺は部室から駆け出した。
 一年の特進クラス、ついこの前まで使っていた教室だから場所は明らか。
 教室のドアを勢いよく開くが……室内には誰もいない。
 ……しまった、もう授業が終わってからかなり時間が経ってる。
 明日の休み時間にした方がいいかな。

 しかし、休み時間に突撃スカウトをしようにも肝心の本人が居なかったり、昼休みもどこかに行っているらしく、さっぱり捕まらない。
「ダメね、慎二……」
 失敗する度、呆れた顔した紀子に小言を言われた。



「バスケ部?」
「そう、バスケ部に居るらしいよ。的場なんたらくんは」
 紀子のクラスで話題になったらしく、今更ながら有力情報をゲットした気分。
 善は急げだ! バスケ部が使用している体育館に急いで向かった。
 そういえば、生徒会長もバスケ部だったような気が……。

 バスケ部はハードな練習の真っ最中で、とても話しかけられる状況ではなく、本人の姿を確認するだけしてそのまま部室に戻ることにした。
 途中、ピアノの音が聞こえたので、導かれるように音楽室に向かった。
 思ったとおり、弾いていたのは紀子だった。
 俺が入ってきたことに気付くと弾くのをやめ、話しかけてきた。
「どうだった?」
「間違いない。アイツだ」
 そう、とそっけない返事をすると、また鍵盤を叩きだした。
「慎二はもう、弾かないの?」
 ピアノのことだろうか。付いていけなくなって辞めたんだから……俺は。
「たまには弾いてみたら?」
 言われるがままに紀子の横に立つと、やたら高いキーで『ねこふんじゃった』を演奏してやった。
 いまいち、思ったように指が動かない。
「『ねこふんじゃった』はダメよ。指使いがメチャクチャになるから」
「そういえば、先生がよく言ってたな」
 ふと思い出して、口元が緩んだ。
 先生が教室に来るまでの時間、好き勝手にピアノを弾きまくって……ねこふんじゃっただけは弾くと怒られてた。
「まだ通ってるのか?」
「ピアノ教室? 高校受験があったから中三の時に辞めたわ」
 辞めた? ほぼ毎日のようにピアノの音が聞こえるから、まだやってると思ってたのに。
「好きなんだ……」
「え?」
「ピアノ……」
「あ、ああ、うん……何て言うか……弾いてると落ち着くんだ……」
 ……紀子のヤツ、何慌ててんだ? 俺、何か変な事言ったかな。


 ――好きなんだ……。
 勘違いしたのか、あのバカ。そんな訳ないだろ。
 ……言い方が悪かったかも。
 確かに紀子のピアノは好きだけど……そういうのじゃない。


 部が同じで、家もすぐ側だから、帰りも一緒。
 でも今日は少し違う、帰り道。
 いつも色々と喋ってくる紀子が、終始黙り込んで気持ちが悪いぐらいだ。
「具合でも悪いのか?」
「ううん。……ちょっと考え事してるだけだから……」
 テンションも低めだ。何か調子狂うな。
 大きく息を吸って溜め息をつき、空を仰いだ。吊革が電車に合わせてゆらゆらと揺れているのを、しばらく見つめていた。


 人を好きになるのに、そんなに時間は掛からない。気付けばいつの間にか、特別な存在になっている。そんなものだ。





 的場を追い回しはじめて三ヶ月。横にしか振ってくれなかった首を、ようやく縦に振ってくれた頃には九月――秋になっていた。
 早くみんなに知らせたくて、生徒会の集合時間を無視して部室に駆け込んだ。
「ついにやったぞ! 明日からあの的場洋平が来るぞー!」
 川村と仁科は大袈裟にはしゃぎまくり、万歳三唱。
「今年の文化祭は成功させるぞ!」
「「おー!!」」
 やたら張り切る俺たちを、紀子も嬉しそうに笑顔で見守っていた。


 時間に遅れて生徒会室に行くと、顧問の美濃が不機嫌な表情で俺を出迎えてくれた。折角のいい気分も台無しだ。
「浦田、遅れるなら一言、言いに来るのが常識じゃないか? 遅れた理由は何だ」
 言いに行く暇があったら遅れて来ないっての。
「部活で緊急の用事があったのでそっちを優先しました。すみません」
 とは言っても、反省しているような態度ではなく、語尾は仕方なく付け足した。
「部活? 音楽バカの集団に緊急の用事だと? 言い訳するならもっと説得力のある言い訳をすることだ。……まぁいい、さっさと始めるぞ」
 いちいち癇に障る言い方をしやがる。前も特進クラスの癖に、と部活の事を棚に上げ、ねちねちと文句を言われた。
 こっちだって、好きで生徒会役員になった訳じゃない。それでも、頑張ってやってるのにちっとも評価してくれない。
「今日は文化祭の――」
 そうか……もう、そんな時期なんだ……。
 今回は文化祭の執行部としても仕事をしなきゃならなくなるだろう。本当は部活を優先したいのに……。
 失敗は出来ないってのに――。

 会議中も結局、部活のことばかり考えて、何も頭の中に入ってこなかった。
 言われた通り、各部・各クラスに配る、文化祭の出し物についての書面を作り終えた頃には、陽に照らされた街並みも紅く染まりはじめていた。
 日中の日差しはまだまだ強いのに、夕日はずいぶん秋らしくなっている。
 結局、今日は部活どころじゃなかったな……。もう、みんな帰っただろうし。
 一度、椅子に座ったまま体を伸ばしてから、まだ残っている生徒会長の中西さんと、副会長の沢崎さんに一通り目を通してもらった。
「……いいだろう。あとはコピーして、部の顧問とクラスの担任に渡しておけ」
 クラスはともかく、部って全部でどれだけあるんだろう?
 分かる範囲で指折り数えていると、
「三十二、予備もあった方がいいから、三十五部でいいと思うわ。とりあえず、美濃先生にも見てもらってね」
 さすが副会長さん。頼りになる。
「ありがとうございます。じゃ、お疲れ様でした」
 と言って、軽く頭を下げると職員室へ向かった。……また美濃かよ……。


「お、やっと出来たか。……ふむ。いいだろう。これはオレが配っておくから、もう帰っていいぞ」
 はー、助かった。誰が何部の顧問かまで知らないからなー。美濃の機嫌もいいみたいだし。
「じゃ、お願いします。さようなら」
 頭を下げると、陽気な返事が返ってきた。
「おう」
 ……気持ち悪いぐらいご機嫌だ。生徒会室に居る時の美濃とは別人だ。
 職員室から出ようとすると……。
「丸山せんせーい、今年の文化祭の――」
 ……ははーん、丸山先生と話す機会が出来てご機嫌なだけかなー?
 丸山先生が居る時の美濃は気持ち悪いけど安全……と。


 生徒会の会議で遅くなると踏んでいたのでカバンは持ち歩いていたのだが、ふと気になって用事もないのに部室に寄ってみた。
 今日は遅くなるからと言っておいたので誰も居ないはずだった。
 廊下に明かりが漏れている部屋の中に、軽音部の部室も含まれていた。
 まだ、誰かが残ってる?
 静かにドアを開けると、ヘッドホンを着けてキーボードを叩く紀子の姿があった。
 手が止まり、ヘッドホンを外すと、独り言を言い出した。まだ俺には気付いていない。
「やっぱり、電子音は好きになれないなぁ……」
 大きく溜め息をついて、譜面に音符を書き加えている。
 俺が知らない間にこんな事をしてたなんて……。
「何やってんの?」
 紀子は驚いた表情で振り返ってきた。
「うわ! 慎二、いつから居たの?」
「電子音は好きになれないなー、のちょっと前から」
「……黙って見てないで、声掛けてくればいいのに」
 熱中しているように見えたから掛けそびれたんだけど。
「先に帰れば良かったのに……的場が来るのは明日からだって言わなかったっけ?」
「うん、聞いたわよ。……ちょっと、気に入らない所があったから直してただけだから」
 身の回りを片付けながら、紀子は続けた。
「折角、憧れのボーカルを迎え入れるというのに、出来の悪い曲を歌わせるなんてこと、できないでしょ?」
 そこまで真剣にやってくれてるなんて、今まで気付かなかった。
「ありがとな……」
「いいのよ。好きでやってることだから」
 紀子の笑顔に一瞬ドキリとした。
 ……え? 今の何?
「さ、帰ろう」
「あ、ああ」
 何か変だったぞ、今……いやいや、気のせい、気のせい。疲れてんだよな、きっと。


 帰りの電車は、見事にラッシュ時間で大混雑。何とか乗り込んだもののドアに張り付いていヒィヒィ言っている状態。電車が傾くと押しつぶされて……ヒィー!! ドアが外れたら死ぬな、これは……。
 駅に入り目の前のドアが開くと、押し出されるように人の波が……待て、俺はここで降りないんだ! 流れに逆らえず、とりあえ手を伸ばし何かを掴んだ。
「うぁ、ちょっと、慎二!!!」
 掴んだのは紀子の腕であって……気付けば二人して電車から放り出され、呆然と乗っていた電車を見送るハメになった。
 カッタンカッタンという音と電車が小さくなっていく……。
 次の電車は三十分後。
「しぃぃんんんじぃぃぃぃ」
 明らかに怒りを露にしている紀子。
「いや、ワザとじゃない。ドアの淵を掴んだつもりだったんだけど……」
 俺が悪いのか? いやいや。
「そんな事言うぐらいなら、さっさと帰れば良かったんじゃないのか? 俺に八つ当たりされても困るんだけど」
 と、言い返してやった。
 図星だな。紀子は顔をしかめて何も言わなくなった。
 しかし、三十分も待つのもどうでもいいな。とりあえず飲み物とお菓子を調達してくることにした。


 ポリポリといい音を立ててチョコレート菓子を頬張る紀子。
「慎二、食べないの?」
 差し出されたそれは、確かに俺が買ってきたモノだけど……。
「俺、チョコレートとか甘いもの好きじゃないから……」
「じゃ、この取っ手部分あげる」
 チョコレートの付いていない所を折って俺の口の中に押し込んできた。
「……!!」
 ナニやってんだ、この女は!!!
 つーか、俺は欲求不満かいな。この色気も味気もない女を変に意識するとは……。世も末か……。いや、まだ二十一世紀になってそう経っていない。
『ピンポンパンポーン♪ 間もなく特急列車が――』
 さっさと帰って、頭を冷やすに限るな。
『通過いたします。ご注意下さい――』
 ……通過?
 期待の電車は、そりゃぁもういい勢いで走り去ってしまったよ。
 この駅、最悪……。

 何とか家に辿りついた頃には七時を過ぎていた。





 的場洋平を新たに加え、軽音部は文化祭に向けて本格的に活動を開始した。
 休日返上(?)で練習に励み、いよいよ二度目の文化祭当日。
 入場は前回同様チケット制。今回の売れ行きは予想以上だった。椅子の数だけしか用意していなかったので、急遽、立ち見席も五十ほど追加したが、それでも足りない勢いだった。
 恐るべし、的場マジック……。

 好きでやっているとはいえ、ステージでやるのはまだ2回目。
 緊張しまくっている俺たちと違い、慣れている的場は別人のようにイキイキとしていた。
 会場は満席。例えそれが的場目的だったとしても、この風景をどれだけ夢見てきただろうか。
 緊張していたはずなのに、気付けば夢中になり、会場との一体感というのを初めて体験した。

 今回のステージは何の悔いもなく、完全燃焼。とても気分がいい。


 まだ、文化祭の真っ最中だというのに、軽音部の部室では既に打ち上げが開始されていた。
 しかし、ステージに立つと人が変わるよね、まとちゃん。
 ワイワイ騒ぐ俺たちに対し、あのノリノリの兄さんはどこへ行ったのやら、と言わんばかりに退屈そうな態度だ。
「まぁ飲みなさい、まとちゃん」
 と紙コップを持たせると、ジュースを入れてやった。
「ビーフジャーキー食べるか?」
 上機嫌な川村が袋ごと的場に差し出す。
 それは、ビールのおつまみだろ。普通に食べるお前は変だ。
「……ビールが欲しくなるから遠慮します」
 コイツ、隠れ不良か!!
「やっぱり、ハバネロでしょ!」
 辛いものマニア、仁科。あんな辛いものを平気で頬張るアンタはきっと味覚オンチ。
 仕方なくそれを口に運んだ的場は、しばらく普通につまんでいたが、しばらくすると額に汗を浮かべ、険しい表情に変化していった。仕舞いには口を押さえてウー! と雄叫びを上げながら部室から逃げ出した。かわいそうに……。
 それからしばらく、四人でどんちゃん騒ぎをしていた。





 文化祭も成功を収め、部活といえば世間話をする程度だった。
 各々、好き勝手に部室を出入り。まともな練習はしばらくお休み。
 なんとなく、この場所が落ち着くという理由で俺もよく来て窓の外を見ていた。
 最近、まとちゃんが来なくなった理由は、今、目の前にある。
 ――いつの間に彼女が出来たんだか……。羨ましい。
 ――あ、C組のかわいい子だ。確か瀬野さんだったかな? また男と一緒だよ……ちくしょう。やっぱり付き合ってんのかなぁ。
 ――あれ? 生徒会長……副会長と一緒だ。……まさか!!!
 嫌がらせなのか? カップルばっかり。
 もしかして、俺だけ時代に乗り遅れてるの?
 俺にももうちょっと余裕があれば、振られずに済んだかもしれないが……と、今更ぼやいても遅いんだけど。
 これから恋人同士で迎えるとハッピーなイベントが盛りだくさんだというのに、なんて悲しい現実かな。今年もシングルベルが鳴り響くことになるのだろうね。
 室内に視線を戻しても、色気のないツルペタ女が居るだけだ。またチョコレート菓子を食いながら雑誌を捲っている。
 ここに居るという事は、俺と同じく時代遅れか。
「んー、ナニ?」
 俺の視線に気付いたのか、紀子が顔を上げた。
「いや、別に」
「チョコが付いてない所、食べたい?」
 先日のやりとりをふと思い出してしまい、カッと顔が熱くなった。
「い……いらんわ、アホ!」
 そう言い捨てると、また窓の外に視線を戻した。
 心臓が高鳴ってる。どうしてだろう? 理由は分かってる。あの日、気付いてしまった。だけど、自分自身がそれを認めたくないんだ。関係を壊したくないんだ……。
 我が部、最大の損失になりかねないから、今の関係を壊したくない……。

 ひっそりと想いを寄せ、一緒に居られるだけで幸せだなんて、小学生みたいな考えはもうない。
 付き合えればそれだけで十分なんて、子供染みた恋愛なんかイヤだ。
 いつからだろう……全部欲しいなんて思うようになったのは――。

 人への想いは、自分でもどうしようもなく、歯止めが利かない。
 まるで溶けない雪のように、日に日に募るばかりだ。





 ――十一月は生徒会の選挙。
 今度こそ立候補から外れてやろうと思っていたのに、現職だからという理由でまたしてもクラスの代表となってしまった俺。
 次は生徒会長か、副会長か……いやいや、俺が当選するとは限らない。一体、何人立候補すると思っているのかね。三年除く各クラス男女二人。十四分の二の確率。
 特に目立った行動はしていないはずだ。

「慎二、既に予想の時点では当選確実っぽいよ」
 休み時間になって、紀子が教室に遊びに来た。紀子の全身をチェックする方を優先したので、何を言ったかは聞こえていたが記憶されなかった。
 チェック終了。俺の感想は……、
「……やっぱ俺、何か間違ってる! 世の中をもっと見るべきだぁぁぁ」
 机に何度か頭をぶつけてみた。これでバグがとれますように。
「ちょっと……慎二?」
「こっちの話。気にしないで」
 ……そうだ、ここは男らしく決心しようじゃないか。
「当選したら告白してみよう。ダメならスパっと諦める。いやいや、なかったことにしよう。そうだ、それがいい」
「誰に? 何が? っていうか、昔からアンタの独り言って声デカいのよね。当選確実だと言ったのに、告る気満々ですな」
 よーし、落選しますよーに。頑張らないぞー!

 人の話はちゃんと聞きましょう。



 運命の選挙当日……即日開票。結果は裏切られた。
 脳内は真っ白。放課後、よたよたと廊下を彷徨い歩いていた。
 俺が生徒会長だってー?!!!
 書記はみごとにまとちゃん。
 何がどうなったらこんな結果になるんだ……。
 ……ハッ! 文化祭で目立ちすぎた!!!
「当選したら告白するんだったよね?」
 いきなり背後から話しかけられてビクッとした。
「誰に? 何なら呼び出し係りでもしてあげようか?」
 わたわたと慌てる事しかできず、何とも情けない。
「……ホントは嘘だったとか?」
「嘘なんかじゃ……」
 ムキになって答えてしまった。ああ、俺のアホ。
「またフラれるのが怖いんでしょ? 今までのフラれた理由、考えた事ある?」
 思ってもいなかった言葉に、やっと冷静さを取り戻した。
 振られた理由?
「部活優先しすぎだろ?」
「ピンポン、正解。分かってるなら同じヘマはしないようにね」
 いってらっしゃいと言わんばかりに、手を振る紀子。それは同じ部だと関係ない。
「……好きです、付き合ってください」
「予行練習はいいって。早く行けば? ……あ、呼び出し忘れた?」
 違うよ、このクソ鈍感!
「お前に言ってんだけど……」
「冗談はヨシコさん」
 お前、何年前のギャグだ、それは。
「本気なんだけど……」
「……三〇点、出直してきなさい」
 まだ冗談だと思ってるのか。
「日下部紀子さん、俺と付き合ってください」
「……いまいちときめかないよね、そのセリフ」
 いくら何でも、愛してるなんてセリフは言えませんよ。
 耐え切れなくなって、紀子から視線を逸らした。
「……冗談なんかじゃない。俺は本気なんだから……」
 所詮、家が真向かいで、ただの幼馴染み、バンド仲間。それ以上でもそれ以下でもない。
 気付けば恋愛対象になって、好きになってただけだ。
「もういいや。なかったことにしてくれ」
 自分でも認めたくなかったような想いならば、なかったことにすればいい。
 紀子に背を向け、そのまま家路についた。
 自分じゃ認めたくなかったけど、本気だった。そう気付いたのは一人で乗る帰りの電車の中だった。





 紀子に負けたくなかった。
 勉強も頑張った。運動だってそこそこできる。だけど、ピアノだけは敵わなかった。
 追いつけないと分かって逃げ出した。
 また、側にいてくれることが嬉しかった。昔みたいに話せて嬉しかった。
 どこで恋愛感情に変わってしまったのだろう。
 近くに居るのに、遠くに居る――。
 今日はピアノの音が聞こえない。



 生徒会の引継ぎや会議で、部室に寄らない日々が続いた。
 学校でも紀子と顔を合わせることはなく、バンドへ誘う前に戻ったような日常。
「浦田さん、帰らないんですか?」
 会議が終わっても、頬杖をついたまま動かない俺に話しかけてきたのは、書記になったまとちゃんだ。
「あー……うーん」
 適当な返事ぐらいしかする元気もない。重傷だな、俺は。
「大丈夫ですか?」
「あー……そうだ。まとちゃん、彼女居たよね?」
 ちょっとイヤそうな顔をしたが、まぁ……、と小さく答えた。
「告白する時、何て言った?」
 更にイヤそうな表情。さすがにそんなことは答えたくないよな。
「参考までに、頼む!」
 手を合わせて頭を下げると、仕方なさそうにもごもごと喋りだした。
「ずっと……好きだったから、付き合ってくれ……みたいな……」
 俺が言ったのとたいして変わりない。相手の捉え方次第か?
「もういいですか? オレ、もう帰りますよ?」
「うん、ありがと。ごくろうさん」
 ……参考にならなかった感じ。
 冗談と捉えられている以上、この恋を成就させる為には押しまくるしかなさそうだな。
 押してダメなら、引くしかない。


 しばらく寄っていなかった部室にふらりと寄ってみると、またも電気が点いている。
 少しだけドアを開けて中の様子を伺うと、紀子が机に伏せてピクリともしない。
 いくら何でもこの時期にうたた寝なんかしたら風邪を引くだろう。
 静かに入ると、上着を掛けてやった。
 さて、どうするかね。このまま起きるのを待つか、そのまま帰るか、起こして一緒に帰るか……。
「――クシュ……」
 ……いや、寒い。マジで寒い。外はもっと寒そうなのに、こんな格好で帰ったら風邪を引きそうなのはこっちだ。そろそろコートでも着てきた方がいいかな?
 などと考えていたら、紀子が起き上がり、目を擦っていた。
「あれ……寝てた?」
 寝ぼけた声でそう呟くと辺りを見回し、俺の顔を見るなり驚いた表情に変わった。
「うわわわ、慎二……!!」
 紀子が慌てて椅子から立ち上がると、肩に掛けていた俺の上着が床に落ちた。
 それを拾おうとしゃがみこんだ彼女は、俺に背を向けたまま、上着を抱き込み動かなくなった。
「……慎二……この前の……」
 紀子の口から発されるものとは思えないような、聞こえるか、聞こえないかぐらいの小さな声だった。
 一応、気にはしてくれてたのか。なら話は早いかな。
「冗談じゃないよ。気付いたらそうなってて自分でも驚いたぐらいだ」
 こんな言い方じゃ、答えようがないかな。
「紀子……好きだ。昔から一緒に居るから、今更、付き合おうなんて無理かもしれないから、とりあえず一緒に居てくれるだけでいいから……」
「――良くない」
 あ? 折角、カッコよくキマったと思ったのに、何か思いっきり挫かれた感じ。
「私だって……慎二の事、気になって……自分がどうかしちゃったんじゃないかって思って……」
 何だ? らしくない事言うじゃないの。
 急にすくと立ち上がり俺の方を向くと、人差し指を向けた。
「だって、慎二じゃない。家がお向かいで、ちっちゃい頃からずっと一緒で、それなのに今更、恋愛対象? ははっ、気の迷いとしか思えないわよね」
 うわ、開き直った? つーか、ひどい。
「……でも、近すぎたんだよね。去年の文化祭前まで、全然、話をしなくなって――離れてまた近づいて、やっと気付いたんだ……。小さい時、慎二と一緒に居た頃、当たり前だと思ってたけどとても楽しかった事……」
 紀子は下を向き、俺のブレザーをまたギュッと抱きしめ黙り込んだ。この百面相が……かなりマジメな話をしている最中だというのに、ころころ表情を変えすぎだ。
 でも、紀子も同じ気持ちだって、そう捉えていいんだよな?
「……じゃ、帰るか」
「――え?」
「そう何度も付き合おうなんて言うか、バカ! いいんだろ、ソレで……」
 紀子の表情がふっと緩んだ。
「……うん」





 付き合いだしてから、少し手を繋いで歩いたりするようになったぐらいで、たいした変化なんてなかった。
 家は真向かい。
 いつも側に彼女は居る。呼べばすぐに飛んでくる。
 昔と、変わらない。
 少しだけ、感情に未熟な大人の事情が複雑に絡み合ってしまっただけ。

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